日本語教師をしてました③インドネシアでのお仕事話
こんにちは! ご覧いただき、ありがとうございます! ダグ嫁です\(^_^)/
日本語教師をしていた時代の話です。
今回は、インドネシアのバンドン。 「バンドン会議」の都市です。
仕事が決まるまで
仕事の内容
中国でのお仕事が終了し、 次の就職先を探していたら、 またまた420時間日本養成講座を受けていた学校からお声が。
次は
インドネシアなんだけど、
どう?
やりますっ!
養成講座の学校の経営母体である企業が、日本政府と提携しておこなうプロジェクトで、日本の病院や介護施設で働くことが決まっている外国人労働者の日本語教育。
日本インドネシア経済連携協定(EPA)に基づく看護師・介護福祉士育成
という名前の、 なにやら、すごいお仕事!
学習者は、 4ヶ月、バンドンで学習、 2ヶ月、日本の研修施設で学習、 その後は各病院、介護施設で働きます。
圧迫面接!
知らない会社じゃないし
融通きかないかなぁ~
と思っていた私、今から間に合うならビンタしたい(´д`|||)
国とタッグを組むプロジェクト=会社にとっても失敗できない 研修生の契約企業(病院等)が、比較的大規模 =苦情は出したくない 日本の未来を担う事業(医療現場の人手不足という日本の問題を解決できるかもしれない)
重い! その重さのぶん、 面接・模擬授業も厳しい!
養成講座の学校からテレビ電話で面接&模擬授業① 東京の本社で、模擬授業②
テレビ電話面接が、 精神をえぐり、つらかったぁ…
今の説明で、伝わらなかったら どうしますか
学習者に合った方法が
見つからなかったら
どうしますか?
どちらの質問も、今なら即答できるのですが、 当時はオドオドしてましたね(^-^;
テレビ電話が切れたら、全身の力が抜けたのを覚えています。
事前研修
千葉県の研修施設で、2泊3日の事前研修がありました。
新米さんからベテラン先生まで、経験値も年齢、性別も様々。 お話するだけでも、ためになります!
が、話だけじゃ済まされない…
グループに分かれて、グループでの模擬授業(指定された一課の中を分担して発表)
現地の基本情報や注意点について、有識者のお話
マナー研修
グループ模擬授業は、もうホント、大変の一言!! 夜2時までグループで相談し、その後は個人で発表する部分の調整作業で、
朝4時までかかりました
睡眠時間、2時間弱…
よくやったよ
自分…!!
自主勉強会
先生方は、居住地域も様々なので、 近くに住んでいる先生で集まって勉強会をしようという話に。
隣県の駅近くのファミレスに居座り、 授業の進め方、必要な教具、 海外生活のこと、 個人的な話(彼氏、彼女がいるか、とか・笑)
学生時代に帰ったような時間。 お仕事の集まりなんですが、ね(-.-)
みんな、最後まで脱落せずに頑張ろう!
と団結して終了。
その1ヶ月後、インドネシアに出発です!
バンドンでの生活
成田からジャカルタへ空路 ジャカルタからバンドンへは大型バスで移動しました。 教える場所は、バンドン市内の大学。 大学内に(なぜか)ホテルもあり、日本人一行は、そこに寝泊まりしました。
学習者
4クラスを1班とし、先生が分配されました。 私は、特に担任を持たず、班の中のクラスをまんべんなく回り、教える立場でした。
ざっくりと「看護師」「介護福祉士」でクラス分けされていて、私たちの班は介護福祉士の4クラスでした。
学習者は、独学で挨拶程度は学んだけれど、それ以外はサッパリ。 今回は、中国にいたコーディネーターさんのように、通訳してくれる人材はいませんでした。
日本語教師力が試されます!
使用教材
「日本語90日」をベースにした専用教科書 専用ワークブック 自作ワークプリント 各種テスト 会社作成 絵カード 会社作成 会話CD
朝、聞き取りテスト、書き取りテスト、ディクテーションなどが日替わりでおこなわれまさした。 学習者にはハードだったと思います(_)
ついていけないとか、寂しくなってしまい日本行きをやめたくなってしまった為、失踪する学習者もいましたね。 (お偉いさんが、自宅まで説得に行ってました(^-^;)
数人、脱落したと思います。
私は、教える側もハードでいっぱいいっぱいで、とてもフォローできず…
他の先生方も、同じ。
お偉いさんがいない日が多かったのは、 教える人に負担をかけさせない配慮だったのかなと思います。
私は、できるだけ楽しく学べるように、 体を使ったり、自由度の高い活動を多めに入れていました。
地震!
そんな中、バンドンで地震! 震度5か6くらいだと聞きました。
ビルが大きく揺れ、 天井は落ちかけ 学習者はパニックで、 揺れている最中に屋外へ逃げ出し… (教室があるのは4階です)
過呼吸になる人、 怪我をした人、 大変な1日でした。
今まで使っていた教室は、倒壊の恐れがあったので、 急遽、別棟での仮設教室作り。
授業再開は、一週間後でした。
日本大使館での壮行会
地震でバタバタしましたが、詰め込みまくって、4ヶ月のプログラム終了。
帰国便に乗る前に、ジャカルタの日本大使館での壮行会に、日本語教師陣も参加することに。 教師はスーツ着用、学習者はインドネシアの民族服バティックを身につけ、 決意を新たにしていました。
寂しくならないように「家族の見送り禁止」だったようです。
インドネシアの方って、 (良くも悪くも) 家族を大事にする、優しい気性のようです。
日本での勤務
教師陣、学習者=200名余を、 専用機(!)で成田まで。
そのまま、各クラスに分かれてバスに乗り込み、 箱根と熱海のあいだ(=山奥)の研修施設へ。
(逃げ出さないようにする為なのか、研修施設って、山奥が多いんですかね?)
初めての共同風呂でトラブってたり、 日本円に戸惑い、 お祈りの場所を確保するのも一苦労。
最初の数週間は、 本当に大変だったと思います。
ここから、教師陣も班をシャッフルし、私は看護師コースで教えることになりました。
専門用語の導入
インドネシアでの学習では、まだ専門に分かれていませんでした。 教科書は、医療系仕様にはなっていましたが、 本格的な、現場でするような会話は、まだ登場していませんでした。
看護師コースの場合、 「褥瘡(じょくそう)」「昏眠(こんみん)」など、日本人でも普通に生活していたら聞かない用語がたくさん!
まずは読み方から… 教える側も日々、勉強でした。
実習
実際に病院や介護施設で働いている方を講師に招き、 利用者さんとの会話の仕方や、 体位の換え方、 職場でのコミュニケーションのとり方など、
教科書では学べない「実際」を学ぶ機会が何度かありました。
ここらへんは、さすがにお手上げ。 優しい日本語で理解をフォローしたり、 利用者役を演じるくらいしか お手伝いできませんでした。
それでも、数週間後には、現場へ赴く学習者たち、 しっかり身につけていくのです…!
やっぱり、自分の興味がある分野って、 集中してのめり込めるんですね(^.^)
プログラム終了
冬だったので、夜、外に出て 流星群を見たり、 箱根や熱海市街地に観光に出てみたり、 (学習者カップルが熱海デートしていたなぁ…) 餅つき大会もしていたなぁ。
初めての日本を楽しんでいました。
1月中旬に、すべてのプログラムが終わりました。 各施設の担当者が、学習者を連れていくパターンと、 大型バスで近くの駅まで送られるパターン。
映画のお別れシーンの再現のようでした。
みんな、頑張ったね。 行ってらっしゃい! また、集まって話をしましょう!
6ヶ月が、こんなにも心動かされるなんて、 思っていませんでした。
本当に、ここまでよくやった! でも、彼らにとって大事なのはは「ここから」
最大限のエールを送り、お別れしました。
その後
2年後に、私が結婚したのですが、 披露宴に4人の教え子を招きました。
経済的な負担がないよう、宿泊費、交通費は全額出すという、日本人参列者以上にフォロー(  ̄▽ ̄)
AKB48のインドネシア版JKT48が出て来ていたので、 余興「ヘビーローテーション」を歌い踊ってもらいました(笑)
ノリノリ~
なのに、
みんな動きが揃ってない~(ノ´∀`*)
ま、練習しなかったよね~! (知ってた!笑)
まとめ
唯一つながっていたFacebookが、 私のページが乗っ取られ (未だに原因不明) 交流できなくなってしまったのですが、 みなさん元気にしているかな~?
学習者との出会いも、 日本語教師としての経験も、 忘れられない貴重な思い出です。
日本語教師、
やめられないっ!
今は、できてませんが、 また、復活したいなぁ。